会長挨拶

令和六年度 (山形小学校長) 大池昌弘 

「幸せ」について    

十年ほど前になります。現在も続いているNHKeテレの番組「100分de名著」が、正月に「100分de幸福論」を放送するというので、興味を感じて見ることにしました。

この番組は、起承転結となるテーマを設定して、一冊の名著を読み解いていくスタイルですが、「幸福論」では、四人の各界の専門家が、それぞれの分野での「名著」をもとに、「人間の幸福とは何か?」を考察する、という流れでした。四人の顔ぶれもユニークで、作家の島田雅彦が井原西鶴の『好色一代男・女』、経済学者の浜矩子がアダム・スミスの『国富論』、哲学者の西研がヘーゲルの『精神現象学』、心理学者の鈴木晶がフロイトの『精神分析入門』から、それぞれ幸せについて論ずる、という構成です。いったいどのような結論が出るのか、少しわくわくしながら、正月の夜にテレビに向き合いました。

見終わった後、少し呆然としました。肩透かしをくらったような感じでした。私がその時にとらえた結論が、「幸せとは、誰かの幸せを願うことである」だったからです。四人の専門家それぞれの結論が、まさか「幸せは自分の内にあるものではなく、自分の外にあるものだ」となるとは思いもしなかったので、あれ?となってしまったのでした。

しばらくは、そんなことも忘れて忙しく日々を送っていたのですが、急に「本当にそんな結論だったのか?」が気になりはじめ、NHK出版の番組ムックを買い求めました。改めて四人が著した文章を読んでみて、やはり結論はおよそその通りであったことが分かりました。表紙には一言ずつ「幸せとは、断念ののちの悟りである」(島田雅彦)、「幸せとは、人の痛みがわかることである」(浜矩子)、「幸せとは、ほんとうを確かめ合い、自分の生を肯定することである」(西研)、「幸せとは、愛する人が幸せでいることである」(鈴木晶)と、表明されていました。どうやら私は、鈴木晶の言に最も感応したようでしたが、四人とも結論の向く方向は同じであるような気がしました。

改めて考えてみると、教師である私たちの「幸せ」とは、確かにこのようなものである、と、みなさんも思わざるを得ないのではないでしょうか。

東筑摩塩尻教育会創立一四〇周年を迎えた令和六年、青柳直良先生が十二年、それ以上の歳月をかけて編まれた記念誌が会員、準会員のみなさんに手渡されました。そこでは手塚縫蔵の人と思想が、生き生きと活写されています。「塩筑教育の『ものぐさ精神』とは?」と、問われたとき、「磨けば光ることさ」と喝破した手塚の人と思想は、ゆるぎない人格主義教育への信念に源流を持ち、その核心は「子どもの前に立つことは神の前に立つことに等しい」との、ゆるぎない子どもへの愛であった、と、私なりの理解をさせていただきました。ここで、先に長々と述べたことがつながるように思います。即ち、「教師である私の幸せとは、目の前にいる子どもたちが幸せでいることである」と。休み時間の他愛のない話でも嬉しそうにほほ笑むとき、顔を真っ赤にして「わかった!」と叫ぶとき、じっくり取り組んだ作品を認めてもらって、鳩のように胸を膨らませる子どもを見たときに、私たち教師はたとえようのない「よろこび」を感じます。その時、「私は私であっていい」と、自身が感じられることが、まさに「幸せ」そのものと言えるのではないでしょうか。私たちは、微力ではあっても子どもの幸せを願うことにより、幸せにしてもらっている存在なのではないか、と思うのです。

手塚のころ、教育会の使命は「研究と修養」でした。現代の私たちは、「研修」により職能向上を図っていますが、では、「修養」はどうでしょうか。私たちが子どもの前に立つとき、その幸せを願うとき、私たちはそれだけの人間である、と、胸を張って言えるでしょうか。修養により教師の人格を高めるという、教育会のある意味に改めて思いをいたし、「自ら求め、ともに磨き合う塩筑教育会」のテーマのもと、様々な教育会の場につどい、大きなものぐさ精神をもって互いに磨き合う。節目の年、私たちの来し方行く末を想いながら、東筑摩塩尻教育会の諸事業で、お会いしましょう。