東筑摩塩尻教育会の歴史
開発主義(ペスタロッチ主義)教授法の伝習を目的として、東筑摩郡私立教育会が創立される。長野師範学校長能勢栄の指導を受ける。
東筑摩郡私立教育会主催の教育品展覧会が松本町開智学校にて開催される。
東筑摩郡私立教育会が、私立松本教育会に改称される。
東筑摩教育交詢会が創立される。
東筑摩教育交詢会後援の松本教育品展覧会が松本尋常高等小学校にて開催される。
信濃教育会東筑摩交詢会が成立する。
松本市制施行により郡市教育会が分離し信濃教育会東筑摩部会と改称される。
このころから白樺運動の教育観が盛んになる。
犬養木堂先生講演会が松本中学校で開催される。
柳田国男氏の第1回講演会を東筑摩教育会で開く。
副会長手塚縫蔵氏を中心に松本幼稚園にて第1回聖書研究会を開く。(キリスト教の精神にふれて教師自身の人格を高めようとする動きが起こる。)
教育会の編纂による『筑摩郡誌』が発刊される。
折口信夫の講演会が和田小学校で開催される。
手塚縫蔵氏会長に選出される。(以後、12年間会長として「存在は教育なり」の理念の下、教育会のために尽力する。)
西部支会が新村小学校を会場に仏教美術講習会を行う。(以後5年間続けて)
柳田国男、新村出、小倉進平、金田一京助らを招いて夏期講習会が行われる。
教育会において満蒙開拓青少年義勇軍の送出に力を入れる。
教育翼賛体制樹立の要請により、大日本教育会長野県支部東筑摩分会と改称する。
東筑摩教育会と改称する。
東筑摩教育会館の落成式を行う。
70周年記念総集会を女鳥羽中学校にて行い、「東筑摩教育会70周年記念誌」を刊行する。
東筑摩塩尻教育会と改称する。
『塩筑教育』創刊号を刊行する。
上條俊介氏の物ぐさ太郎像が完成する。
東筑摩塩尻教育会百周年記念総集会を塩尻西小学校で行い、「東筑摩塩尻教育会百年誌」を刊行する。
110周年記念総集会を塩尻中学校にて行い、「教育至宝抄」を刊行する。
「東筑摩塩尻教育会百二十年誌」を刊行する。
楢川村が塩尻市と合併し、楢川小学校、贄川小学校、楢川中学校が本教育会に入る。四賀村が松本市と合併したため、会田小学校・中川小学校・五常小学校・錦部小学校・会田中学校が本教育会から離れる。
明科町が合併して安曇野市となったため、明南小学校・明北小学校・明科中学校が本教育会から離れる。
教育会館の耐震工事及び改築を行う。
波田町が松本市と合併したため、波田小学校・波田中学校・波田中学校松原分校が本教育会から離れる。
法人法改正により、社団法人(特例民法法人)東筑摩塩尻教育会から、公益社団法人東筑摩塩尻教育会に移行する。
筑北村立本城小学校と同坂北小学校が統合され、筑北村立筑北小学校になる。本教育会所属小学校は1校減の15校、中学校は9校で計24校となった。
筑北村立筑北小学校と同坂井小学校が統合され、筑北村立筑北小学校になる。本教育会所属小学校は1校減の14校、中学校は9校で計23校となった。
塩尻市立木曽楢川小学校と塩尻市立楢川中学校が統合され、義務教育学校として塩尻市立楢川小中学校となる。本教育会所属学校は小学校が13校、中学校は8校、義務教育学校が1校の22校となった。